アルジェリアの猿
アルジェリアという国に伝わっている話として、猿を捕らえるときの方法論があります。
木に紐を結わえておいて、その先にヤシの実をつけていく。ヤシの実をくりぬき、猿の手が入るだけの大きさに穴を開けておく。そのなかに米を入れておくと猿が寄ってきて、米を取ろうと手を突っ込むわけです。そして、なかにある米をつかむのだけれども、握ったらヤシの実から手を抜くことができない。手を放せばそこから逃れることはできるのですけれども、猿にはそれだけの認識力がないのです。自分が罠にかかったことの認識はある。しかし、どうやって逃れられるかは分からない。そして、翌朝、人間が来たときに簡単に捕まってしまうわけです。すごく暴れるけれども、米を放すという、このことに気がつかないのです。
それは、自分の「獲物を欲しい」という気持ちと「逃れたい」という気持ちの二つの欲求があるけれども、この二つの欲求の調整がつかないのです。
心の中のこだわり・・・執着(しゅうちゃく)
アルジェリアの猿の話を読んで、みなさんはどう思われたでしょうか?
「間抜けな猿がいたもんだ」と、ただ笑うだけでは済まされない、何か意味深い内容を感じとった人もいるのではないでしょうか。
猿がにぎって手放せないものはお米ですが、私たち人間に当てはめてみるならば、どうしても欲しくて仕方がないものは、お金や地位や住居、または美貌や異性だったりもします。
人間の苦しみの大部分は、「あれが欲しい、これが欲しい」という欲望(よくぼう)にあると見破ったのは、2600年前のインドにお生まれになった仏教の開祖、お釈迦様こと仏陀ですが、欲望で心が一点にとらわれると、それが執着(しゅうちゃく)となり、苦しみや悩みの原因になるんです。
自分が何に執着しているかを知りたければ、「一日のうち、あまり自覚的でないとき、ボーッとしているときに、何を考えているか」振り返ってみるとよいと思います。
わが家のことを振り返ってみると、ここ数年はずっと、子どもの将来の学費のことで悩んでいました。
つまりお金の悩みです。
私が子どもの頃は、まだまだ国公立に権威があって、「公立本命・私立すべり止め」というパターンが多かったように思いますが、今は私立の偏差値も上がり、施設が新しく充実していて、スポーツ強豪校も多いなど、地元でも私立人気が高まっています。
中学校から私立に入れようと考えると、小学校からの塾代も含め、一般的なサラリーマン家庭では、かなり背伸びしないと経済的には厳しいのが現状です。
そんなお金の悩みで心が一点にとらわれていました。
物価が高騰して生活が苦しいといいつつも、世界から見れば日本は豊かな社会に間違いありません。
その豊な社会において、何かを手に入れば幸福ですが、一つ手に入れても、次から次へと欲しいものがあふれ出し、その欲望は尽きることがありません。
そして、自分と周りとを比較しては、嫉妬、疑い、愚痴、不平不満、足ることを知らぬ欲望で心が苦しくて仕方がなくなります。
ある記事で、年収1000万円越えのパワーカップルが、念願のタワーマンションに住んで後悔した話が載っていました。
私たち一般人からすれば、タワーマンションに住める経済力があるだけでも羨ましい限りですが、タワーマンションには「階層カースト」なるものがあり、上層部と下層部の住民では使うエレベーターも違い、明確に格差があり、それが子どもの世界にまで及んでくるのだそうです。
同じマンションに住むママ友との高級ランチや、子どもを月30万もするインターナショナルスクールに通わせる生活に、ほとほと疲れつつも、生活レベルは下げたくないとタワーマンションにこだわり続けるその記事を読んで、アルジェリアの猿の話を思い出したのでした。
捨ててこそ道は開ける
そんな私たちの苦しみを救うべく、お釈迦様・仏陀は「小欲知足(しょうよくちそく)」、いい換えれば「足ることを知る(たることをしる)」という教えを説かれました。
「あれが足りない、これが足りない」といいつつ、実は、私たちにはすでの多くのものが与えられているんですよね。
だから本当は、「与えられていない」のではなく、「自分が欲しいと思うほどには与えられていない」というのが正しい解釈かと思います。
しかし、私たちは荒波を渡る小舟と一緒で、荷物が重すぎたら沈んでしまいます。
船の重量、その人の器に応じたものしか持つ事はできないのです。
ならば、荷が重くて苦しいのならば、その重荷を捨ててしまいなさいというのが、お釈迦様の教えです。
まさに、「捨ててこそ道は開ける」です。
2600年前の仏陀の教えが、いまでも通用するところを見ると、今も昔も人間の悩みなんて、そう大差がないんですね。
グーにしていた手をパーにするだけで、とらわれのワナから逃れることができるんです。
私自身、子どもの学校についても「この道しかない」というこだわりは捨てることにしました。
学力的にも経済的にも身の丈にあった学校というものがあると思うし、扉が開いた方向で最善を尽くすのが正しい考え方だと今は思います。
まだまだ暖かい秋の日差しの中、ラッキーの散歩をして自然に触れていると、「本当に何もなくても、そもそも人間って幸せなんだと」としみじみ感じます。
努力をして欲しい物を手に入れた時の高揚感も幸せの一つかもしれませんが、心の中のとらわれを捨てて、心が軽くなるという清々しい幸福感は、今の忙しい現代人にとっては、何にも代えがたい幸福なのではないでしょうか。
散歩で立ち寄った公園の一枚
春みたいに花々が綺麗に咲いていました